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寄稿「正座」と「静座」① 好村兼一 (フランス剣道連盟顧問・剣道教士八段)

フランス剣道連盟で顧問を務めている好村兼一氏による特別寄稿です。複数回に分けてアップします。(全文は月刊『剣道日本』3月号に掲載)

 京都大会の朝稽古など全剣連管轄の合同稽古で「静座!」という号令が使われ出して長年になると思うが、私は昔「目を閉じて黙考」の号令として「黙想」か「瞑想」しか知らなかったため、当初「せいざ!」と聞いて「正座」を思い浮かべた。続いて「もくそう!」がかからないのが不審で、左右を見回すと皆が目を閉じているのでそれに倣(なら)ったが、その号令「せいざ!」は「静座」を意味するのであると、あとで知った。「静座」という漢字を思い浮かべれば、なるほどと一応の合点はなるが、「せいざ!」と聞いて、「正座」なのか「静座」なのか、まことに紛らわしい。 
 二、三年前に全剣連の役員の方に「静座!」をヨーロッパに持ち込むのはやめてくれと、お願いしたことがある。日本人にさえ紛らわしいのに、漢字を知らないアルファベット文化の人々にどうして「正座」と「静座」の区別がつくだろうか。私はフランスで剣道指導に携わってそろそろ五十年、フランス剣士の間では「Seiza」とは「正座」すなわち「両膝を折る座り方」であって、また、稽古場で立位整列した時にかかる「Seiza !」の号令は「一斉に着座せよ」の意味であるという認識が行き渡っており、「Seiza !→ Mokuso !」号令礼法が定着しているが、他のヨーロッパ諸国でも事情は同じに違いない。これまで長い間「何の問題もなく」「円滑に実践されてきた礼法」に「静座!」を持ち込まれるのは混乱を招くばかりで、迷惑なのである。
 日本剣士の大半は、たとえ公的な稽古会で「静座!」が使われようと、自分の稽古場に戻ったなら昔から慣(なら)いの「黙想」か「瞑想」かを号令としていることだろう。日本人ならばごく自然にそのような使い分けができるし、何ら支障はないのだが、欧米人となるとそうはいかない。欧米人の思考論理は「白か黒か」「イエスかノーか」の二者択一法であって、欧米人には日本人の「どちらでもよい」「臨機応変」といった灰色論理は通用しない、理解なり難い、のである。(こうした発想法の違いについて詳述しようとすれば一冊の本になってしまう)
 フランス剣士にとって全剣連派遣団の先生方は「正統剣道の権威」なのだから、講習の場で教わったことはかなう限りに守ろうと努める。そこで講師が「号令に“静座”を使いましょう、しかし強制はしません」と言ったら彼らはどう反応するか?

「強制しません」とはどういうことか、「そうしろ」という意味か「そうするな」という意味かと頭を悩ませながら、ある者はともかくも「静座!」を取り入れ、ある者は納得が行かずに「正座 → 黙想!」を踏襲する。するとそこで彼らの間に「どちらが正しいか」といった不要不毛の議論が生まれて、諍(いさか)いにまで発展しかねないのである……私はこれまでフランスで幾度もこの種の苦い体験をさせられた。
 全剣連派遣の講師が必ずしも「静座!」を推奨するわけではなく、少なくとも私が過去お手伝いをした全剣連派遣団主催のフランスまたはヨーロッパでの講習会においては、推奨は一度もなかったと記憶している。もしも私が居合わせた時に講話に「静座推奨」が出てきたならば、あとで舞台裏で講師に直接私見を披露したことであったろう。その機会のないまま時折「静座推奨」を耳にしていたので、前述のように全剣連の役員に話を通したのだったが、近頃また耳にしたため、ここは問題点を広く剣道界に知らしめる必要ありと踏んで本稿を起こした次第である。
 「日本の文化と歴史の上に成り立つ剣道」を文化習慣言語の異なる人々へ理解と普及を望むとすれば、多種多様の困難が伴うことには誰しも肯(うなず)くだろうが、さてそれでは一体どのような困難か? というと、日本国内に住んで日本の文化習慣に浸かり切った頭では細かに想像がつかないし、つくはずもない。「パリはスリが多いから気をつけろ」と出発前にさんざん注意されているにも拘わらず、パリに到着するや被害に遭って「ああ、こういうことだったのか」と実感する日本人旅行者と同じ理屈で、「文化の違い」は長年現地に居住して社会のあり方と物の考え方に深く触れて初めて「その重大さ」に「身をもって」考えが及ぶのだ。たとえ海外指導経験豊富な指導者といえど、単発の短期滞在をただ繰り返す「訪問者」である限りは理解は表面的に留まってしまう。この「正座・静座」は「多種多様の困難」のうちのほんの一例に過ぎない。
(つづく)

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