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剣道を旅して 剣道は日本の真ん中だった

剣道を旅して 剣道は日本の真ん中だった

剣道は日本の真ん中だった

鈴木智也(ライター/元・編集部員)

読者の皆様には初めて明らかにするが、私は剣道日本編集部でただ一人、剣道経験なくして編集部に入った人間である。森田健作の『おれは男だ!』を毎週欠かさず見た世代で、そのイメージから高校の必修授業では剣道か柔道の選択だと言われ迷わず剣道を選んだが、いざ授業を受けてみると、防具は臭いし面を打たれても小手を打たれても痛い。剣道部の奴は「遠慮しないで打ってきなよ」と言うけど、どのタイミングでどう打てばいいのかさっぱり分からない。さらに小学生のときに剣道をやっていたという奴がいて、そいつに打たれるとさらに痛い。

 スポーツは得意で体育の授業は楽しみだったし、決して清潔好きではない高校生だったが、痛いのと臭いのとで、すっかり剣道が嫌いになった。

 そんな私が『剣道日本』で働くことになったのは、『スキージャーナル』『テニスジャーナル』を刊行している出版社であるスキージャーナル株式会社に中途採用されたからである。そのどちらかの仕事をしたかったが、入社が決まって配属されたのが『剣道日本』だった。嫌だな、何年かしたら他の部署に移りたいな、と思った。それなのに、なぜか30年も剣道に関わり続けることになった。

 剣道って面白いと最初に思ったのは、剣道史を扱うページの担当になり、剣道の過去を知るようになったのがきっかけだった。

1956年(昭和31 年)、仙台市の宮城球場で開催された第3回全日本東西対抗剣道大会。この大会は第1回全日本なぎなた選手権大会との同時開催だった(第3回まで)。写真はなぎなた関係者からお借りしたもので、剣道の場面が編集部にはないが、ぎっしりとスタンドを埋めた観衆の数には驚かされた

 上は昭和31年(1956)の全日本東西対抗剣道大会の写真である。当時は全日本なぎなた大会も同じ舞台で行なわれた。手元にはこのなぎなた大会の写真しかないが、2万5千人という観衆の数は衝撃的だった。私の生まれるつい数年前のこと、会場は当時の宮城球場、現在のKoboパーク宮城である。この写真に出会うまでに一〜二度は全日本東西対抗大会の取材に行っていたが、体育館は閑散としており観衆はせいぜい多く見積もって1000人程度だったと思う。 

1940年(昭和15 年)、宮崎市の宮崎神宮に特設された会場で行なわれた、紀元二千六百年奉祝宮崎神宮武道大会。戦後の全日本東西対抗大会の原型となったと言われるこの大会には、2万人余りが押し寄せた。大会に出場していた松野義慶範士にお借りした写真

 上の写真はその東西対抗の原型となったと言われている、昭和15年(1940)の紀元二千六百年奉祝宮崎神宮奉納全国武道大会。宮崎神宮境内に特設された会場に2万人の観衆が集まっている。戦前のプロ野球はマイナーな存在でむしろ大学野球の方が人気だったと聞くから、もしかしてプロ野球以上の注目を集めたのではないか。

 そしてこの下の写真は、私の生まれた年、昭和35年(1960)、インターハイで優勝した大分県の国東安岐高校の選手たちが、地元に凱旋したときのものだ。私が子どもの頃、全国どこにでもあったような商店街をパレードし、町の人たちの祝福を受けている。まるで甲子園の野球大会で優勝した選手たちを迎えるようだ。

1960年(昭和35 年)、インターハイ団体戦で優勝した国東安岐高校(大分県)が、地元に戻って商店街をパレードする。当時の優勝メンバーからお借りした写真だが、地元の人たちの喜びようが伝わる一枚だった。1991年(平成3年)の取材当時、この商店街を歩いてみたが、店も少なくなり人通りはほぼなかった。その後安岐高校と改称された同校は、平成15 年に閉校となる

 私の生まれる少し前、生まれた頃は、こんなに剣道が一般の人々に認知され、注目されていたことを、この3枚に代表される古い写真で私は知った。どの写真を見ても、剣道を見守る人々、応援する人々の胸の高鳴りが聞こえてきそうである。  一体これはなんだろう。剣道はこんなに日本人の魂を揺さぶってきたものなのか。剣道って凄い、と私に感じさせたのは、現在進行系で目の前にある剣道ではなく、古い写真だった。

(「道場という美しい場所」につづく

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