残心とは心を残さないこと?
残心の二つ目の意味について(前編)
―休刊告知号(2018年/No.504)より―
文・編集部
全日本剣道連盟編の『剣道指導要領』では、「残心」は以下のように説明されている。
「打突した後に油断せず、相手のどんな反撃にも直ちに対応できるような身構えと心構え」
昇段審査の筆記試験などではこういった解答で正解であろう。だが同書では続いて具体的な残心の方法について説明したあと、最後になって以下のように付け加えている。
「打突に際し少しも心を残さず全力で打ち込めば、気が充実し、自然に相手に対応できる状態が出来、これも残心といっている」
最後の部分は最初にある「残心」を実践するための心構えととらえることもできるが、最初が「心を残すこと」を残心といっているのに対し、二つ目は「心を残さない(で打つ)こと」を残心といっている、という点で大きく違っている。あるいは前者は「打った後」のことであるのに対し、後者は「打つときの心構え」をいっている。「これも残心といっている」という表現からは、二つの異なった内容を同じ「残心」という言葉で説明しているともとらえられる。
先人たちはこの二つの「残心」をどのように説いたのか。とくに二つ目の意味の「残心」は忘れかけられている印象もあり、この二つ目の「残心」を中心に、文献をひもといてみることにする。
「残心には二つの意味がある」とした高野佐三郎
東京高等師範学校主任教授などを務めた「近代剣道の父」高野佐三郎は、『武道寶鑑』(昭和9年、大日本雄辯會講談社)の中で「剣道の奥義を語る」と題して質問に答える形で解説しているが、「残心という事についてお話下さいませんか」という問いに対し、以下のように答えている。
「『残心』とは心を残さないようにして残すこと、初めから心を残すつもりで残すのは『残心』ではない、分解していうと、このコップの中に一滴の水を残すには、傾けて少しずつ捨てれば少しも残りなく捨ててしまうが、一度にぱっと捨てると一滴の水が残る。残さんと欲すれば残らない、思い切って捨てれば残る。残そうとして行(い)った残心は残心ではない、打つべきところを十分打って初めて残るのが真の『残心』です」
残心について述べるように言われて、その意味を説明するのではなく心構え、あるいは真の残心とは何かということを述べているのだが、とにかく強調しているのは二つ目の意味の方である。
高野の著書『剣道』(大正4年刊)は、現在に至るまで多くの剣道技術書のベースとなっているが、そこで高野は「残心」には「二つの意味」があると明記している。
「残心というは、敵を打ちえたる時も、安心して心を弛め後を顧みざるが如きことなく、尚ほ敵に心を残して若し敵が業を施さんとするを見れば、直に之を制し得るをいふ。撃ちたる後も突きたる後も常に油断なき心を残すをいうなり」
とした上で、
としている。二つ意味があり、一方は「心を残すこと」、他方は「心を残さないこと」で一見反対のようだが、実は同じことだと述べているのである。
「また心を残さず廃たり廃たりて撃つことをも残心という。字義より見れば反対なるが如くなれども実は同一のことを指すなり。心を残さず打てば心よく残る。全心の気力を傾け尽くして、少しも心を残さず撃ち込めば、能く再生の力を生ず。心を残さず撃ちて、撃ちたる太刀はそのまま撃ち捨つれば、自然に敵に対し油断なき心が残るなり。心を残さんとするの心ありて撃てば、既に其処に心止るがゆえに、却って隙を生ず」
『高野佐三郎 剣道遺稿集』
編・著 堂本昭彦