フランス剣道連盟で顧問を務めている好村兼一氏による特別寄稿です。複数回に分けてアップします。(全文は月刊『剣道日本』3月号に掲載)
全剣連派遣団の講習で講師がなぜ「強制はしないが」と曖昧(あいまい)に推奨するかと言えば、「日本剣道界の総意ではないから」というのが理由だろうと思われる。私のように「静座号令」に違和感を覚える剣士が少なくないのではないだろうか。そしてまた私は、「静座号令」は全剣連上層部のごく一部の人々の発案であって、深い審議もされずに実行に移され、剣士は剣士で「日本式臨機応変」に受け容れて、誰も異論を唱えないままなし崩しに慣習? となった……と、このように成立経緯を推測している。
「静座号令」の発案は、おそらく「黙想や瞑想は仏教用語である、剣道の場に宗教を持ち込むべきではない」といった考えに基づいてのことと思われるが、私は「黙想」「瞑想」について次の通り全く見解を異にする。
両語は仏教の用語術語ではなく「(目を閉じて)沈思黙考すること」を意味する単なる「普通名詞」なのであり、すなわち両語には「直接的な宗教要素」は内在しないのだ。これは私が知己を介して禅宗の重鎮に確かめた疑いのない事実である。
「静座号令」発案者は「黙想」「瞑想」を「仏教用語」とばかり思い込んでいるために、剣道界によかれと、善意の苦しい思案の末に「静座!」をひねり出したのに違いない。
「黙想」「瞑想」と聞けば誰でもすぐさま「目を閉じたメディテーション」を連想する一方で、「静座」という言葉そのものはただ「静かに座る、心を落ち着けて座る」を意味するに過ぎず、「目を閉じろ」とも「黙考しろ」とも言っていない。稽古開始時に「心の集中を図り」終了時に「謙虚に内省する」という「目を閉じる」「剣道メディテーション」の「一斉号令」としてどちらが相応(ふさわ)しいか、明白だろう。全剣連管轄の合同稽古で今さら「黙想!」号令に直せなどとは主張しないが、「進んで」ヨーロッパに持ち込もうとするのはやめて頂きたい。
(つづく)