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寄稿「正座」と「静座」③ 好村兼一 (フランス剣道連盟顧問・剣道教士八段)

寄稿「正座」と「静座」③ 好村兼一 (フランス剣道連盟顧問・剣道教士八段)

フランス剣道連盟で顧問を務めている好村兼一氏による特別寄稿です。複数回に分けてアップします。(全文は月刊『剣道日本』3月号に掲載)

 「腹前で両手を重ね合わせるのは仏教式だからよろしくない」と、剣道界に広く慣習化している黙想瞑想体勢を「宗教的」と捉えて嫌う人もいるようだが、私はここにおいても「宗教性は含まれない」と断言する。両手を重ねる重ねないは人それぞれで構わないが、両手を重ねた体勢を外見のみで「宗教」と判じるのは的外れである。
 なるほど、両手を重ね合わせる体勢は仏教瞑想に由来するのは確かとしても、「腹前で両手の平を重ねて親指を合わせる」行為そのものは「臍下丹田(せいかたんでん)の充実と体内の“気の巡り”を円滑にする」のを目的としている。私は気功を学んだのでよくわかるが、人間の「手先」は最も敏感な身体部位の一つであって、「エネルギー」の放射と吸収に大きな役割を果たす。背筋を伸ばして右手先と左手先を合わせる行為は、電極のプラスとマイナスを繋げるようなもので、「エネルギー循環を促進して心身の不均衡を是正する」効果をもたらすのである。
 ヨガ系のメディテーションでは、あぐらをかいて左右へ広げた両腿に上向きに開いた手の平を乗せるのが一般的だが、それは自然界のエネルギーを両手の平から取り込むための体勢に他ならない。密教で教える「様々に印を結ぶ」修行法もエネルギー操作の関りだろうし、「目を半ば閉じて腹前で両手を重ね合わせる体勢での丹田呼吸」は心身の安定を得るに有効な手段であると、いつしか仏教の瞑想呼吸法体勢として確立した……私はそのように推論している。
 仏教瞑想における両手の重ね方は、禅宗系では右手を下、真言宗系では左手を下に据えるが、剣道の黙想瞑想ならばどちらが下でも構わない。腕の組み方も「右腕が上か左腕が上か」各人異なるのであって、左右どちらの手を下にするかは「自分にとって自然で楽な方を」でよいのである。私自身は初めは右手を下にしていたのが、ある時期「左手が下の方が具合がよい」と感じて長い間「左手が下」でおり、近頃また「右手が下」に戻ったし、その日の稽古次第で左右を入れ替えもする。要は「どちらが心身の納まりがよいか?」を自分自身に問いかけることである。「アンバランスを直して欲しい」と内面の声が聞こえるに違いない。
 このように、剣道の場での「黙想瞑想」には、その名称においても体勢においても中身においても宗教性はないのであって、もしそこに「宗教的な何か?」が介在するとすれば、仏教でもキリスト教でもない、世界のあらゆる剣士に共通する「剣道教」であろう。
 また「背筋を伸ばして肩を柔らかく両肘を自然に落とし腹前で両手を合わせて腰を入れる」体勢が「中段の構え」に通じるのは言うまでもない。そこで得られる「丹田充実」の感覚をそのまま稽古に活かす……とは、熟練剣士誰もが心得ていることで、現行広く行き渡っている黙想瞑想体勢はあらゆる剣士に百利あって一害もないのである。

 日本剣術が禅の教えと結びついて「剣禅一致」思想を生み出したのは周知のごとくで、剣を使う殺傷技術が「活人剣」という崇高な境地にまで昇華したのは世界史上他に例を見ない。それは誇るべき文化所産でもあるのだし、「剣禅一致」の痕跡である「黙想瞑想」が現代剣道の場で伝統として実践されるのはまことに有意義、と私は考える。「現代剣道は一過性の運動競技ではなく、文化と人間思想を拠り所として何百年をかけて発展してきた心身鍛錬の道である」と、外部の目、世界の目へ、訴えかけになるからだ。
 剣道の稽古場で「黙想瞑想」の慣習化が始まったのはいつの頃だったのだろう。私は山岡鉄舟あたり? と想像している。
 以上、拙稿を終えるが、私の認識に誤りがあるならばご教示願いたいと思う。
(おわり)

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