道場という美しい場所
鈴木智也(ライター / 元・編集部員)
初めて足を踏み入れた武徳殿は京都の武徳殿だった。明治32年に建てられた大日本武徳会本部武徳殿である。とても懐かしい空気に出会った気がした。そして「ぶとくでん」という響きもどこか懐かしく、聞き覚えがあるような気がした。
10年以上後になって腑に落ちた。私が通った茨城県の水戸第二中学校は、戦災で灰燼に帰した水戸武徳殿の跡地に開校した学校だった。確かな記憶ではないが、そのことを中学のときに聞いていたのだと思う。昭和の初めに水戸で生まれ、育った母に聞いてみた。「立派な建物だった」と母は懐かしい目をした。
新旧さまざまな剣道場、あるいは体育館を取材で訪れた。その中で武徳殿に限らず古くからある道場の中に漂う空気のようなものを私は好きになっていった。霊魂とかを信じているわけではなく、ただの想像でしかないかもしれないが、その床の上で多くの人が剣道の修行をしていたことで醸成された独特の空気がそこにあった。神聖な空間、結界だと感じた。
そういう道場、とくに武徳殿の外観も好きだった。それまで建築物に興味があったわけではないが、日本建築の一つの完成形であると思う。
明治村剣道大会も私の心を揺さぶった。金沢の旧制四高の道場である無声堂で行なわれていた八段大会は、各地の体育館で繰り広げられる剣道の試合とはまったく別の競技をしているようだった。歌舞伎や大相撲には歌舞伎座、国技館という専用の舞台がある。それ以外に地方で開催するとしても、同じような舞台をしつらえる。アマチュアスポーツである剣道では現実的ではないが、剣道を見せるなら剣道に相応しい「ハコ」があるのではないかと思う。
平成5年から編集長を務めるにあたっては、そのような古い道場で撮った写真を表紙にした。平成10年から4年続いた連載「剣道歴史紀行」でもさまざまな古い道場を訪ねた。あるいは何度かの特集で古い道場を紹介したりもした。
いつしか、古い道場は私の剣道日本における仕事の裏テーマとなっていった。調査を進めるうちに、全国津々浦々に戦前までに建てられた道場がいくつも残っていることを知る。中には戦後しばらく経って昭和40〜50年代に取り壊された建物も多かったことを知る。とくにインターネットの時代になってからは情報が増えた。平成17年から他の編集部に移り、剣道日本に復帰したのは東日本大震災直前の平成23年初頭だったが、それから間もなく、「ずっと残したい道場」を連載し、再び表紙に古い道場を使った。
そうやって取材した道場の中にも取り壊されることになったという情報がポツリポツリと入ってきた。なぜあんな美しい建築物を簡単に取り壊してしまうのだろう。日本は世界でも屈指の長い歴史を誇る国家であり古いものを大切にしてきたはずなのに。
スキー雑誌の仕事でイタリアの片田舎に行ったときに、イタリア人のカメラマンが連れて行ってくれたのは、300年か400年の歴史がある古い城だった。その城の内部を改装してさまざまな店が開かれていた。武徳殿をショップにしろということではないが、イタリアの人たちが歴史のあるものを大切にしている気持ちが伝わってきた。
インターネットで知ったことだが、台湾の人たちも日本統治時代に建られてた武徳殿をさまざまなかたちで大切にし、残していた。台湾で世界剣道選手権が行なわれた平成18年には台湾にいくつも残っている武徳殿を訪ねたりもした。
一方日本はスクラップ&ビルドが好きである。もちん建物は老朽化すればメンテナンスに費用がかかることはわかる。近代的な建築方法で建て替えてしまった方が安いこともわかる。大きな道場であるほど冬の寒さは厳しい。新しい道場は使いやすいだろう。しかし剣道が日本の伝統文化だというのなら、それでいいとは私は思わない。明治村大会のような剣道に相応しい舞台での剣道が見たい……。
剣道をまったく知らず、反感さえ覚えていた私が、剣道の世界を30年も旅することになった。そこで見た景色は鮮やかで、私の人生において実に多くの発見をもたらしてくれた。私は最後まで剣道の世界の住人ではなく、そこにまぎれ込んだ旅人だったが、幸運な旅人だったと今は思っている。
感謝している方々のお名前をあげるとキリがないのでしない。剣道を通じて多くの人との出会いがあった。当たり前だがそれは私にとっての財産である。これが別れではない。『剣道日本』をこれで終わりにするつもりはないので、また会うこともある。スクラッブではない。古い武徳殿が修理に入っただけと思って、しばし待っていただけると幸いである
(おわり)