(「その1」のつづき)
心の自然体
──そこが一対一の戦いの難しいところでもあり、同時に魅力でもある。どちらの方向に進むかは自分次第、指導者次第。そして、そこには自然体に対する考え方も深く関与しているというわけですね。では、その自然体を磨いていくにはどうしたらよいのでしょうか。
山口 社交ダンスの流れるような体捌きは見るものを感動させ、とても美しいものですが、武道においても見習うべき点が多々あるのではないかと思っています。先ほど述べた通り、足を前に出したり引いたりしたとき、すなわち相手が仕掛けてきたときに、立ち往生してはダメだということ。相手がいる戦いにおいては、その瞬間に自然体が崩され、隙が生じてしまう。そこで、立ち往生という“詰まり”を解消するためには、つねにその兆しを察知し、事前に対処しておくことが肝要です。しかも、半歩、一歩、あるいは一歩半という無理のない範囲の中で。とはいえ、それは一朝一夕にできるものではありません。だからこそ、日々の稽古においていろんな相手と組み合うことによって、“対応力という勘どころ”をコツコツと磨いていくことが大事。ある種の職人芸のようなものですね。
──戦いにおいて、想定外はつきものですからね。
山口 初心者のうちは、技を仕掛けたり応じたりしようとする際には足元にしっかりと目をやることで、相手との間合を測っています。ところが、レベルが上がれば上がるほど、視線も次第に上がっていく。つまり、修練を積み重ねていくことによって、手や足の動き、あるいは一瞬の圧力など、わざわざ足元を見なくても感覚的に反応できるようになるというわけです。
──怯えがなくなり、自信という裏付けができてくる。
山口 「目は口程に物を言う」ともいわれますからね(笑)。でも、達人にはそれは当てはまらない。おそらく、自然体を形成するもののなかには体捌きは当然のことながら、“心の自然体”もきっとあるのではないかと思います。来るな、来るなと怯えたり、過度に興奮して仕掛けたりするのではなくて、たとえ追い詰められてもつねに平常心でいられるような心の自然体が……。とくに柔道の場合には互いに組み合っているので、相手の息づかいや力の強弱といったものはダイレクトに伝わってきます。逆にいえば、そういう気配の一切を伝えない選手というのが強い。相手に心の状態を読ませないわけですからね。だから、「あっ!」と思った瞬間には魔法にかけられたように、もう宙を舞っている(笑)。
──柔よく剛を制す。まさに虚をとらえた技ということですね。そういう意味でも、自然体を極めることが最強の道へと通ずる、と。剣道の場合も同様だと思います。
山口 ただ、剣道と柔道とではアプローチ法が異なります。剣道の場合は、基本的に竹刀という得物を通して互いに距離を隔てているでしょう。もちろん、つばぜり合いという至近距離での攻防はあるけれども、柔道のようにつねに懐にがっぷり入っているわけではありません。互いに組み合うという手段によって勝負を決しようとする柔道と、組み合わず竹刀を通した手段によって勝負を決しようとする剣道。そういった意味では、まさに対照的といえるでしょう。したがって、人間観察の仕方なども違ってくるのではないでしょうか。
──なるほど。非常に興味深い視点ですね。
山口 だから、これは余談となってしまいますが、剣道家の方のほうがお酒の飲み方もスマート。だけれども長い(笑)。一方、柔道家はラテンな感じで一気に飲み干してパッと切り上げる(笑)。それぞれにそういった傾向がみられるのも、競技特性よる影響が少なからずあるからではないかと思いますね。
──とはいえ、柔道の場合も剣道の場合も相手の虚をとらえた技というのは、本当に「やられた!」とか「しまった!」と思いますよね。剣道でいえば、まさに心を打たれたという技がそれに当たるのではないかと思います。
山口 それが自他ともに認める会心の技ということでしょう。技を打つ、あるいは技を仕掛ける瞬間というのは、心がフラットな状態における一瞬の閃きによるものではないか、と。まさに「無」=自然体の状態から発した技。ところが、人間というのはそこに打算が働くから、相手にも気づかれる。一方で、一瞬の閃きに対応するためには、体も心もつねに自在に動けるような態勢を整えておくことも重要。つまり、予測しすぎても墓穴を掘ってしまうということです。
──難しいですね。
円みを帯びていくのが
成長の証し
山口 でも、答えを容易に導くことができないからこそやりがいもあるし、面白いし楽しいのではないでしょうか。以前、私が全日本のチームに関わっていた頃、コーチミーティングの席で吉村和郎先生(シドニー・アテネ五輪で女子のヘッドコーチ)にいわれたことは今でも忘れることができません。それは「準備は大事だ。しかし、準備に縛られてしまってはいけない。どんなに準備万端整えたとしても予測不能なことは必ず起きるのだから」と。予期しない危機的状況のときにどう対応するのか。そういう意味では、いかにしてピンチをチャンスに変えることができるかが、みずからの真価が問われる瞬間なのでしょうね。そして、そのためのカギを握るのが自然体なのかもしれません。おそらく剣道、柔道の教えの中にある自然体に込められた意義というのは、そこにこそあるのではないか。だからこそ、自然体とは武芸百般はもとより、個々の人生にもビジネスにも通じる極意にもなるのではないでしょうか。
──日々の修練によって人間そのものが練られ、次第に“味”がでてくるのも、それこそが武道本来の目的だからなのでしょうね。
山口 言い換えれば、雑念とか欲が少しずつそぎ落とされていくことによって、本道、すなわち自然体に返っていく。それこそが自然体の求めるところなのかもしれません。つまり、修練とは、さまざまな紆余曲折を経て、自然体をつくり上げていく作業であるということ。剣道においては、高段者の先生方と向き合ったとき、隙がなくて打つところがないとよくいわれます。素人目には、たとえ高段者であっても高齢者が相手であれば、若手剣士のほうがスピードや瞬発力に勝っているのだから容易に打てるだろうと思う。ところが、どこからどう攻めても防がれそうな気がする、と。それはおそらく高段者の剣道がしていないからということだと思います。もし、凸凹していたら、あそこが弱そうだなとわかるもの。しかし目立ったところがどこにもない。円い球みたいなもので、コロコロ転がって、つかみどころがないというのでしょうか。それに対して、若手剣士の場合は当たり盛りで、いい意味で“エッジ”が利いた四角い剣道……。
──切れ味は鋭いけれども、まだまだそれは発展途上である、と。その角が次第にとれて円みを帯びていくのが成長の証しということなのかもしれません。
山口 若い人は、頭で考えるよりも先に体が利くものです。そのことの意味はよくわからないけれども、体で表現できる(笑)。ところが、歳をとってくると、理屈はわかるけれども今度は体でなかなか表現できなくなる。だから、人間というのは、できなくなってから頭でどうしようかと考えるようになるのです。でも、それは当たり前のことで、10代、20代そこらでなにもかも完成された人間というのは、逆に怖いものです(笑)。1996年のアトランタ・オリンピックからシドニー(2000年)、アテネ(2004年)と3連覇を成し遂げた野村忠宏選手は、その後も現役にこだわり、北京(2008年)も視野に入れながら4度目のオリンピック出場を目指していました。ところが、その頃はもうすでに満身創痍。でも、彼はこの体だからこそできる技があるのではないかとチャレンジすることを決して諦めませんでした。でも私は、それこそがまさに人としての“道”の尊さ、次第に円くなっている成長過程を表わしたものではなかったかと思っています。
──“道”と名の付く武道は、より深く追い求めていこうとしたり、スランプやピンチに陥ったときほど、自然体に戻ろうとするのかもしれませんね。
山口 「初心に返る」と言い換えてもいいかもしれません。より厳密にいえば、「初心の頃の教えに返る」ということであり、柔道でいえば、初歩の段階で教わった自然本体を思い出すこと。上級者になってくると、ついつい忘れがちになってしまうのも、そもそも自然体にはこれといった特徴がないからなのかもしれません。
──つかみどころがないという……。だから円いというイメージなのでしょうね。
(その3へつづく)
取材・文=光成耕司 撮影=窪田正仁
この記事は、剣道日本2019年12月号特集「自然体」に掲載されたものです。12月号の詳細はこちら。