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「攻防一体」は、仕事でも剣道でも   長榮周作(パナソニック株式会社 取締役会長)2

「攻防一体」は、仕事でも剣道でも   長榮周作(パナソニック株式会社 取締役会長)2

(前回のつづき)
※この内容は2017年8月取材時のもので、エコソリューションズ社の社名は、2019年4月よりライフソリューションズ社へ変更。また、2018年6月より長榮氏は大阪府剣道連盟会長を務めている。

学生時代はよく遊び
入社後は仕事と剣道との両立を

 私が入社した当時、剣道部は普通のクラブ活動でしたが、平成20年あたりから準CIスポーツという扱いを受け、平成26年からはCIスポーツの指定を受けています(CIとはコーポレート・アイデンティティの略で、企業戦略のひとつ)。住宅関連事業を行なっているエコソリューションズ社では、剣道と9人制女子バレーボール、アメリカンフットボールがCIスポーツに指定されていて、会社からいろいろな支援が行なわれています。最近では、強い選手が結構入ってくれるようになっています。

 一方、パナソニックではラグビーと野球、男子バレーボール(6人制)がCIスポーツに指定されていますが、エコソリューションズ社のCIスポーツとは働き方も違います。選手は原則、各種スポーツに専念しています。社員の選手もいますし、契約選手もいます。社員は現役を引退したとき仕事に復帰します。契約選手の場合は、選手生活を終えたらそれで会社との関係も終了です。

 一方、エコソリューションズ社のCIスポーツ部員は全員が社員です。まずは仕事をしっかりと行ない、余暇にスポーツをする。ただ、会社から費用面での支援がある。その違いです。普段の練習は強制的に参加する必要はありませんが、当然勝ちたいですから稽古には来ますよね。来たくなければ来なくてもいいのですが、そんな人はいません。選手生活を退いても引き続きまじめにやっている者もいます。年を取っていても、道場を縦に使っての打ち込み稽古をしている者もいますよ。

 採用にあたっては、やっぱり仕事も剣道も一生懸命やる人を採用したい。剣道だけでなく、仕事をしっかりとしてもらわなければいけません。それが第一義です。あまった時間で剣道をやるのですから二つを両立できる精神力のある人でないといけないわけですが、入ってくる人を見ていると精神的にも強い人が多いと思います。

 相対的に見れば運動をしている人のほうが礼儀正しいしちゃんとあいさつもします。恥ずかしい話ですが、社会人にもなって挨拶もできない人がいるので、社員教育をしなければならないのが現状です。

 今の学生はちゃんと勉強していると思います。ただ、学生時代の勉強は、会社に入ったときに活かせる場合もあればそうでないこともあります。そこは生涯学習だと思います。会社に入ってからの勉強というのは技術的なものだけでなく、対人関係も含まれます。生涯剣道という言葉がありますよね。いっときのことではなくずっと続けていくなかで向上してほしい。だから学生に対しては、「最低限勉強はしておけよ。そして、せっかくの学生時代なのだから遊ぶこともしておけよ」と言いたいですね。

 稽古時間は1回2時間ほどですから、ガンガン稽古をしたとしても仕事には影響しないと思います。それから、彼らは自主練として試合前になると朝早く来て稽古をしてから職場に行ったり、昼休みに竹刀を振りに道場へ来たり、休みの日は違うところに出稽古に行ったりということもしています。

 私が選手だったころは合宿を年に2回ぐらい実施し、さらに寒稽古もしていました。社内に宿泊施設があるので、朝練をしたら風呂で汗を流して、それから仕事。終わったら夜練をして泊まってという生活です。だから眠かったです(笑)。寒稽古は、火曜の晩に稽古をしてそれから土曜の午前まで5日連続で稽古をしていて、これも施設に泊まっていました。合宿も寒稽古も、私が始めました。大阪の大会で優勝したことで、「がんばらなきゃいけないな」という気持ちになり、それでそういう流れになっていったと思います。

 私のころは「全日本選手権なんて……」という気持ちでしたが、今では山田侑希が奈良から全日本選手権に出場し、去年は信田茉利奈が全日本女子選手権に大阪府から初めて出場を果たしました。高いハードルですが、いずれは大阪から男子が全日本選手権に出てくれればと思っています。

さらに厳しくなった父
高校初のインターハイ出場

 剣道を始めたのは小学校4年生からです。親父が戦争前に少し剣道をしていたようで、初段を持っていました。自分が剣道を再開したいうえに、私があかんたれだったので、それで剣道を始めたのです(笑)。近くの警察署に剣道の先生が来られまして、警察の道場で剣道を始めるという知らせがありました。だから私は1期生になります。親父はもともと厳しかったのですが剣道のときはとくに厳しく、私はしょっちゅう泣いていたことを覚えています。

松山西警察署道場の前にて、父・佐吉氏とともに (昭和35年4月27日撮影)

 小学生のときは試合に出た記憶は1回か2回しかありません。中学生の総体では、松山市内の大会で2位になり、1位になったチームが結局愛媛県大会でも1位になりました。それ以外には試合そのものがあまりなかったです。

 初めは新田高校へ進学することも考えたのですが友達からの誘いもあったので、松山北高校へ進みました。高校は、剣道をするために通っていたようなものです(笑)。1年のときの休みは正月の1日しかなかったですよ。今みたいに朝練をして夜練をしてということではなく、稽古も2時間はやってなかったと思いますが、メチャメチャしごかれました。結構剣道部は厳しくて、校内の友人は髪の毛を伸ばしているのに僕らと野球部員だけが坊主頭でした。

 愛媛県警も稽古に来ました。当時の愛媛県警は全国警察大会で優勝していたころです。そのメンバーがしょっちゅう来るんです。これには参りましたね(笑)。近くに松山大学もあったので、学生が稽古に来ることもよくありました。

 当時はいつも決勝戦まで行くのですが、必ず新田高校に負けていました。われわれの1学年上の先輩がかなり強くて、2年生になったときに新田高校にも勝つようになったのですがインターハイ予選だけ負けました。翌年、ついに新田高校を破って初めてインターハイに出場しました。

インターハイ県予選で優勝した後に、松山北高校の部員たちと。前列右から2番目が長榮氏

 高校の試合といえば、県のスポーツ祭とインターハイ、国体ぐらいしかなかったと思います。当時の国体は高校単位での出場だったのですが、私たちの年はスポーツ祭とインターハイ予選に勝ったので、国体予選のときはなぜか、「今までやったことのないポジションでやろう」とくじを引いて決めて、そして決勝戦で負けました。私はずっと大将をしていたのですが国体のときだけ中堅をしました。(つづく)

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