Ankerというブランドを知っているだろうか。スマホをヘビーに使う20代~30代の間で今や必携品となっているモバイルバッテリーならびにUSB 急速充電器で圧倒的な人気を誇るブランドである。AnkerグループはGoogle出身のスティーブン・ヤンが2011年に創業、創業から10年かからずにスマートフォン・タブレット関連製品でトップクラスの販売実績を誇るまでに急成長した。Ankerグループにとって最大の市場は米国だが、2番目に大きな市場が日本であることを知っている人は意外に少ない。その日本法人を立ち上げた井戸義経氏は30年以上の剣道愛好家である。
取材・文 編集部
(いどよしつね)埼玉県生まれ。県立浦和高校から東京大学に進学。ゴールドマン・サックス等の勤務を経て、2013年からはアンカー・ジャパン株式会社の代表取締役に就任。剣道五段。
公立中学の生真面目くんが
万能アスリート志向の名門高校に染まるまで
──剣道をはじめたのはいつですか?
「埼玉県出身で地元の市立中学に入学したときに始めました。きっかけは父親が部活で武道を習うことを勧めたことです。それに加え、わたしは母が外国人であるため、『純粋な日本人ではない』という思いがどこかにあり、それが日本文化の中核である武道をやってみたいという気持ちにさせたのかもしれません。中学は埼玉大学出身の体育の先生が顧問をなさっており、稽古は厳しくも熱意をもって教えていただきました。中学時代は自分で言うのはなんですが典型的な真面目な生徒でしたね(笑)」
──高校では県立の名門・浦和高校に進学されています。
「中学のときは主将になりましたが、たいした成績を残したわけではないです。勉強と剣道を両立して続けたいという思いは強くありました。中学時代の恩師と浦和高校の顧問の先生が埼玉大学の同門だったこともあり、『井戸は浦高で剣道続けろ』と勧めていただき、県立浦和高校に進学して剣道部に入部しました」
──浦和高校は関東でも有数の進学校ですが、今年の花園ラグビーでベスト16になるなど運動部に異例に熱心です。
「入ってみると、評判とは裏腹に“浦和四年制体育高校”と揶揄されるくらい進学校らしからず体育に熱心な学校でした。たとえば毎月各スポーツの大会が全学で開催されて、体育の先生たちもチームを結成して生徒たちとゲームを争う。受験勉強は4年目(浪人)にやればいいんだ、というくらい進学校らしからぬおおらかな雰囲気で、『少なくとも三兎を追え』『無理難題に挑戦しろ』という万能アスリート志向の高校でした。そんな校風のため、埼玉県内の勉強もスポーツも限界に挑戦して当たり前! という学生が多かった。わたし自身も『限界まで頑張って、自分の限界がもっと先にあることに気づく、それが楽しい』というように染まってゆきました(笑)」
──剣道部での指導はどのようなものでしたか?
「埼玉大学出身の金子先生(在学当時の顧問)、その後を引き継がれた津坂先生が『打倒! 強豪私立高校!』で生徒を鍛えぬき今でも関東大会出場は当たり前、全国大会に出場することも多々あります。わたしは主将を任されましたが、非常に悔いが残ることに当時は当然に期待されていた関東大会出場を逃すという結果になってしまいました。この蹉跌は人生観に大きな影響を与えていますね」
──高校時代に大事な試合で勝てなかったことがどのように影響したでしょうか?
「単に真面目に頑張るだけでは結果が出るとは限らない。『差別化しなければ強い相手には勝てない』という考え方です。高校剣道では小学生から継続している選手と中学から開始した選手では県の上位レベルではやはり差が出てしまいます。わたしは小学生から頑張っている人たちに比べて積み上げてきた稽古量が少ないのに、『漠然と先生に与えられた稽古を日々頑張る』ということをしてしまった。中学時代の真面目くんの延長で『コツコツ頑張れば結果はついてくる』という甘えた考えだったと思います。不利な状況ならば、その分知恵を絞らなければならない。取り戻せない時間を唯一埋めることができるのは『人と違うことをする差別化しかない』という意識がこのときに芽生えました」
大学でリベンジ!のはずが、
またも夢破れる
──高校剣道で蹉跌を経験した後、一浪で東京大学文科Ⅱ類に入学しています。
「高校剣道で悔いが残る結果に終わったため、勉強では絶対に悔いを残したくなかった。現役時はまったく勉強が追い付いていないなかで滑り止めを受けずに東大だけを受けましたがあえなく不合格。1年の浪人生活を経て合格できました。とにかく完全燃焼で高校生活を終えたかった。剣道で燃え尽きられなかった分をぶつけられたと思います」
──大学では高校時代のリベンジのためにすぐに七徳堂(剣道場)に直行ですか?
「実は最初は剣道部に入る気はありませんでした。小学校時代の積み上げがなく、さらに受験時代の1年は稽古していないわけです。その間、全国の強豪選手は必死に稽古している。どうあがいても全国レベルで勝てる気がしないと思い、大学から始める競技(アメフト、ラクロス、ボート)を中心に自分がインカレで活躍できる可能性がある競技を物色しました。散々悩んだ挙句、やっぱり高校時代の借りを返したいと思い、5月くらいに運動会(東大では体育会のことをこう呼びます)剣道部の門をたたきました。同期の中で遅い方の入部でしたね」
──剣道部ではすぐにレギュラー?
「それが東大だと思って楽観的に考えていたら4年生に強い先輩がいて、打倒強豪私立大学どころか、1年生の時はなかなか試合にさえ出られません。体も慣れて試合に出してもらえるようになると、今度は学外の私立大学剣道部との練習試合で完膚なきまでに打ちのめされる。『人と違うことをやって差別化するしかない』と思いました。たまたまOBの中でも伝説的な選手だった小林知洋先輩が風格と勝利へのこだわりを両立した上段選手だったこともあり、藁をもつかむ思いで上段に転向しました、2年の春です」
──大学生活が残り2年半程度という中で大胆な判断ですね。
「たしかにOBで上段選手がいたとはいえ、毎日指導してもらえるわけでもありませんし、部内に上段はいませんでした。頼る指導者はいません。しかもそのまま中段でやっていれば選手で残りの3年間は試合には出場できる。ただ自分自身の中ではもう学外の大学にどうやって勝つかで頭がいっぱいで、やっている人が少ない上段というのは巨大な希望のフロンティアにしかみえませんでした。迷いはなかったですね。幸い上段転向もスムーズに進み、4年生時には主将となりました」
──これで中学、高校、大学と主将ですね。
「組織の歯車として頑張って貢献することが正しいと当時は信じていましたから、高校時代などは自分より強い選手がいましたが、『井戸やれよ』という形で主将を任されました。自分としては『For the Team』でやっていることを誇りにしていましたが、チームのためにやっているのだから、というのが甘えになっていたのでしょう。大学最後の大一番では自分が負けて有終の美を飾れませんでした。それだけでなく、在学中は個人でも団体でも全国大会にはついに出場できず、不完全燃焼でした。自分の中では、目標を定めて、差別化をして、コツコツと努力を積み重ねたつもりになっていましたので、最後の試合の後は絶望して涙を流しました。努力しても、工夫しても、本当に欲しかったものが手に入らない、こんなに努力しているのになぜ与えられないのだろう? と。この受け身の考え方が間違いだったことに後で気づくわけですが。どちらにしろ、大学時代も剣道は後悔の歴史です」
──勉強は高校のときのように浪人上等?
「真面目にやりましたよ(笑)。大学時代は将来自分がどうなるのか思い悩む時期でもあります。当時の東京大学は、国家公務員や弁護士が第一、重厚長大の製造業や銀行・商社が第二、という雰囲気がまだありました。米国のドットコム・バブルも弾けて、外資系ブームも少し落ち着いていたというか。漠然と民間企業で日本が世界で戦える事業に関わりたいということで、当時世界的に注目されていたトヨタ式生産システムの研究をする、経済学部の藤本隆宏教授のゼミに所属していました。もしも、大学剣道で全国大会に出場するなど満足感を得られて、『コツコツと努力を積み重ねれば結果はついてくる』と信じたままだったら、先輩方の導きに従って国内メーカーに就職していたかもしれません。
大学卒業後、井戸氏は外資系証券会社に入社。現在はアンカー・ジャパン株式会社の代表取締役を務めています。そうした職歴のなかで得た経験、そして今後の剣道に求めることについては、剣道日本5月号をご覧ください。