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【インタビュー】学生王者、今は医療に携わる。 鳴本敬一郎さん(静岡・森町家庭医療クリニック院長)2

【インタビュー】学生王者、今は医療に携わる。 鳴本敬一郎さん(静岡・森町家庭医療クリニック院長)2

睡眠不足はご法度
1日複数回の稽古も

 祇園北高校(広島)の3年生のときに広島で国体が開催されました。それが終わってから進路のことを本格的に考えました。本当は体育の教師を考えていたのですが、漠然と「医者はいいな、人と接するのはいいな」という思いが浮かんできたんです。そのときから一浪すると決めていましたが、実際、勉強が間に合わなかったですね。浪人している間は剣道から離れました。

玉竜旗大会にて、チームメイトらとともに。右が藤原崇郎監督
国体優勝メンバーとともに

 翌年の受験では先に私立大学には合格していましたが医学部ではなかった。やはり医学部に行きたいなと思っていたとき、家族の中で「剣道やったら?」という話になって、「であれば筑波かな」と思い、試験を受けに行きました。

 最初は迷いました。1年間剣道をしていなかったので。ところが大学の入学式のときだったか、平岡右照先輩から「入部するんだろ?」って言われて。「イヤ、ア、エーッと、はい……」みたいな感じで、入った感じでした(笑)。筑波へ受験に行くたび、平岡先輩の家に泊まってお世話になっていました。そして部活を見たとき、もう一回上を目指したい、トップクラスの先輩たちともう1回やりたいって気持ちが出たんです。

 稽古は月曜から土曜まで。4時半ぐらいまで授業があったのですが、授業を聞きながら足にテーピングを巻いて(笑)、5時の稽古開始時間には間に合うように行っていました。ただ、「今日はすみません」と言って飲み会を辞退して時間を取って勉強することはありました。睡眠不足で練習することは良くないので、できるだけ睡眠は確保して。どうしても間に合わないときは一夜漬けしていましたが。

 もし稽古が足りないときには、医学部の練習が夜7時半からあったので、そちらにも出ていました。低学年のときは「お前練習が足りてなかったのか」と言われてしまうので、あえて出ませんでしたが(笑)。環境は充分整っていたので不利益は感じなかったです。

 選手に入りたいという意識はあまりなくて、他の大学のトップに行く選手や、部内で苦手な人をどうやって攻略するか。それをずっと考えていました。その結果、選手に入れさせていただいたというのはあったかもしれません。

 4年時の全日本学生優勝大会では、最初は大将をやっていたのですが、途中から内田(勝之)に替わりました。準々決勝で明治大と対戦しました。そのときの大将が岡晋輔君でした。内田は高校(PL学園)でお互い知っているので、そこで大将を交代しました。監督の香田郡秀先生からは、「(次も大将で)どうだ」と言われて「行けます」とは言いましたが気持ちの面ではちょっとキツイなとも思っていました(笑)。そのとき“もう一歩の壁”というのをすごく感じていて、「ここ」というときに一本を取る土壇場の力に不安を感じている自分もいました。

 決勝戦は僕が副将で、引き分けてしまうと、大将が二本勝ちしなければ同点にできない状況でした。カッちゃん(内田)からも「一本(勝ち)でいいから」と言われて「おう分かった」と言ったのはいいのですが試合をしながら「ああ無理だ」と(笑)。でも大将戦で彼が二本取ってくれたから「すげえな」と思いました(代表戦でも内田が二本勝ちして筑波大学が優勝)。序盤のところでは大将をしましたが、切羽詰まった場面はなかったと思います。と言ったらドラマにならないのですが(笑)。

大学4年時、劇的な逆転で優勝を果たした筑波大学。序盤は大将で出場していた

 5年生以降も、医学部の大会に出させてもらっていました。東日本医科学生大会では4年と6年のときに個人優勝しています。5年のときは決勝で負けました。団体戦は、たしか6年生のときに初めて3位になったと思います。当時はインターハイレベルの人が結構医学部にも入っていました。5年生以降になると実習が多くなり、体育学群の稽古はときどき行く程度で医学部のほうをメインでやっていました。医学部の練習は週2か週3回だったと思います。(つづく)

※鳴本氏のインタビュー記事は、2019年12月号特別企画「医学生と剣道」内に収録しています。
https://kendonippon.official.ec/items/24213423

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